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掃除是道即仏道
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年の瀬を迎えて何かとせわしなくなってきました。十二月の別称「師走」は、お坊さんが檀家の家々をお経に回るのに忙しく、日頃は落ち着いている和尚さんまでが走り出すからだといわれますが、文字通り大掃除やお正月準備にてんてこ舞いになっています。
特に大掃除は一年の埃をはらい新しい年を迎える大切な儀式ともいうべき掃除で、これが終わると松飾りがつきいよいよお正月を迎えることになります。すす払い、床拭き、仏具のお磨き、ガラス拭き、そして障子の張り替えと進んでゆくうちに心持ちもすがすがしくなってきます。「掃除は是れ道、即ち仏道なり」子供の頃、掃除の度に聞かされた父の言葉がしみじみと思い出されます。
私が子供の頃は掃除は家族中の仕事でした。座敷を掃きだし、廊下を拭き、石段を掃いて庭の草を取る。子供にもできる仕事があり、お手伝いは日課でした。特に日曜日ごとの本堂の掃除は、私にとっては遊び時間を削り取られる天敵でした。何とか抜け出そうとある時、「せっかく掃除をしてもまた汚れてしまうんだから毎回しなくてもいいじゃないか」と父に言いました。すると「そうだね、今日はやめにしよう」、意外な返事に戸惑いながら、それでも心のなかでは「やった!これですぐに遊びにいける」ととびあがっている私に「それなら今日はご飯もいらないね。どうせ食べてもまたお腹がすくんだから無駄だよね」と父の二の句が飛んできました。何度やっても汚れてしまう掃除が省いても良いものなら、何度食べてもお腹の空いてしまうご飯も省いても良いだろうというのです。お腹が空いては遊びにもいけません。あっさり降参です。渋々掃除している私に父は「掃除は是道即ち仏道なりといってね、掃除の嫌いな人はお坊さんにはなれないんだよ」と諭すのですが、「何でも修行にしてしまうなんてずるいや」と思うばかりでした。
掃除は修行、これを理解したのは大学生になってからのことでした。冬休みで帰省した折りに庭を掃いていたときです。落ち葉の終わり頃で掃いても掃いても次々に枯れ葉が舞い降りてきます。掃き終わる頃にはどこを掃いたのかわからなくなっていました。「きりがないなぁ」と溜息を漏らした瞬間、「即ち仏道なり」という言葉が脳裏をかすめはっとしました。途切れることのない落ち葉が、心の中にわき起こってくる煩悩に見えたのです。まるで落ち葉が地面を覆うように、私たちの心も次々にわき起こる欲望に覆われ、放っておくと本来の心を見失ってしまいます。際限のない掃除、それは尽きることのない「煩悩の掃除」を形に現していたのではないだろうか。そう思って見る庭は、自らの心を映し出しているスクリーンのようでした。枯れ葉を掃いているのではなく心の塵を掃き集めていたのだと知ったとき、「掃除は是道」といった父の言葉が少し解ったように思えました。
暮れの大掃除もまた、家の埃とともに心に溜まった塵を払い落とし、真新な心で新しい年を迎えようとする営みだったのではないでしょうか。そうして除夜の鐘を迎え、百八といわれる人間の煩悩を滅する事を願いながら新春のスタートを切りたいと思います。
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